越谷市

語り継ぐシベリア抑留 越谷で展示会と講演

壮絶な体験談 平和への思い

抑留体験を語る大釋敏夫さん(左)
抑留体験を語る大釋敏夫さん(左)


 第2次世界大戦後にソ連東部のシベリアに強制抑留された人たちの労苦を次世代に伝える「シベリア強制抑留関係展示会」が1、2の両日、越谷市南越谷地区センター・公民館で開かれた。1日には「抑留体験を語り継ぐ集い」も行われ、三重県伊勢市在住の大釋(だいしゃく)敏夫さん(100)が生々しい体験談を語り、市民約50人が耳を傾けた。
 この催しは、一般財団法人全国強制抑留者協会埼玉県支部が主催、県、越谷市などが後援した。県支部の座間三郎支部長、前川佳也副支部長はいずれも越谷市在住の抑留体験者だ。
 大釋さんは三重県一ノ瀬村(現・度会町)生まれ。1941年、18歳で満州開拓団の一員として中国東北部に渡った。44年軍に入隊、高射砲部隊に配属され、遼寧省鞍山で米軍の空襲から昭和製鉄所を守る任務に就いた。45年の終戦直前、突如参戦したソ連と朝鮮半島東部の清津(チョンジン)で戦ったが、ソ連軍の捕虜となった。翌46年、シベリア東部コムソモルスクに送られた。
 大釋さんが従事させられたのはインフラ整備、森林伐採、道路造り、シベリア鉄道工事など。氷点下40度の戸外での作業はただただつらかった。「寒くて鼻が凍傷にかかり、血流をよくしないと腐るので、雪でこすった」。
 食事は粗末で少なく、常に飢えていた。「仲間とは帰国したらおはぎが食べたいとか食べ物の話ばかりしていた」。翌朝、その仲間が冷たくなっていたことも度々だった。
 寒さと飢えの中、「ここで死んでたまるか! 生きて一緒に日本に帰ろう!」とひたすら耐えた。
 ようやく帰国できたのは終戦から3年以上たった48年。それから75年。平和の大切さを訴える活動を行っている。「今、家でおいしいものを食べると、かえって当時のことを思い出す」と語る。
 会場には抑留者が食べたコーリャンのおかゆやおにぎり、塩味のスープ、黒パンなどのレプリカや、収容所(ラーゲリ)での生活を描いた絵画や資料が展示され、多くの人が見入っていた。
 越谷市谷中町の岩本勝義さん(83)は「小学校では親を亡くした友だちがたくさんいた。そういう時代だった。生の抑留体験を聞くのは初めてでよかった」と貴重な機会に感謝していた。