最新のニュース 越谷市

「奥州古道」のルートを解明 越谷の加藤幸一さん

奥州古道の一つ、現在も残る下妻道の手書き地図(加藤さん提供)
奥州古道の一つ、現在も残る下妻道の手書き地図(加藤さん提供)


 日本橋から日光坊中(日光東照宮)に至る「日光街道」が江戸時代に整備される以前から存在した「奥州古道」について、越谷市郷土研究会顧問で同市文化財調査委員の加藤幸一さん(73)がこのほど、江戸城から幸手に至るルートを調べ上げて発表した。実地調査を行い、12年間かけて手書きで地図を完成させた。奥州古道は奈良・平安時代から京の都と東国を結ぶ重要な道だったとされるが、資料が少なく謎の部分が多かっただけに、貴重な研究成果となりそうだ。

江戸城から幸手まで 12年かけ踏査し地図完成

加藤さん
加藤幸一さん


 越谷市立図書館で10日と17日に行われた郷土歴史講座「知られざる越谷を通る奥州古道」で、講師の加藤さんが発表した。
 加藤さんは、江戸時代中頃の文化文政年間に、越ヶ谷宿の本陣を勤めた福井猷貞(ゆうてい)が著した「越ヶ谷瓜の蔓(うりのつる)」に出てくる「往古奥州道」を考察。「人々は河川の氾濫でできた自然堤防上を往来しただろう」という前提の下に、古道の道筋を推定。それに基づき、自ら歩いて調査した。
 江戸城の常磐橋を出発して、隅田千軒宿(東京都墨田区)、大原(八潮市)を進み、八条堤(中川沿いの現在の八潮市八条、草加市柿木、越谷市東町)から越谷市大相模地区の旧・千疋(せんびき)村、四条村、別府村、南百(なんど)村を通る「下妻道」を奥州古道と推定。その後、同市内の六本木刑場跡から観音横町、大沢橋、押立(おったて)堤を通り、大林寺、間久里と、日光街道と一部重なりつつ進むルートを、栗橋の渡し(元栗橋、現・五霞町)まで発表した。
 加藤さんは「古道はくねくね曲がった土の道。砂利道すら珍しい」と言う。観音横町には道しるべや高札所もあったと推察。日光街道沿いでは2と7のつく日に「市」が立ったという。
 奥州古道は現在も市民の生活の道として生きている。越谷市西方から相模町の大聖寺(だいしょうじ)東門に向かう道は、地元では古道と伝わる。加藤さんはこれを奥州古道の一部と推定。現在の道路は、八条用水から大相模保育所バス停までは新設された新道だが、大相模小入口バス停から東は古道を利用して整備されたという。
 大里から大林にかけては、現在の日光街道と並行して元荒川沿いの自然堤防上に奥州古道があったと推定。ルートは「大林寺の東側の道を通り、日光街道と東武鉄道が交差する大里の踏切辺りで日光街道に合流したのではないか」という。
 また、昨年4月、越谷市大林の「海道西遺跡」で平安時代の竪穴式住居と河畔砂丘地を示す砂地が発掘された。このエリアも「江戸時代以前に奥州古道があった裏付け。室町、鎌倉時代とさかのぼれる可能性がある」とも。
 「どこにもアンチョコ(参考書)がないから面白い」と加藤さん。「身近な生活の中に江戸時代以前の重要だった古道があったことを多くの市民に知って欲しい」と話している。