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「大鰐口」は野外にあった・越谷「浄山寺」江戸時代の地図で判明

 越谷市野島の浄山寺にある市指定文化財「野島浄山寺の大鰐口」が江戸時代の1862年(文久2年)に同寺本堂が全焼したのに、無傷で残っていたのは、当時、境内の屋外に設置されていたためであることがわかった。越谷市教育委員会の調査でこのほど判明した。

 浄山寺の「大鰐口」は現在、本堂内につるされている金属製の鳴り物具。丸く平らで、その中は鰐の口のように空洞になっている。1841年(天保12年)に奉納された。直径180㌢、厚さ60㌢、重さ750㌔と巨大で全国でも例を見ない巨大さだ。本堂が全焼した際に大鰐口だけが無傷で残ったことが、長年、謎とされてきた。

 越谷市は、文化財や歴史資料をインターネットで見ることのできる「デジタルアーカイブ」(電子データの形で長期的に保管する記録方式)開設へ向け準備を進めている。その一環で他市や他県の公開状況を調べていたところ、東京都のデジタルアーカイブ「東京アーカイブ」で「浄山寺」がヒット。本堂焼失前の1853年(嘉永6年)の「境内図」が公開されていた。「大鰐口」は境内中ほどの屋外に設置されていた。

 大鰐口の表面には80人ほどの奉納者の氏名が刻まれている。奉納者は神田紺屋町、日本橋青物町、江戸橋四日市など都内の地名が多い。
 当時、浄山寺では、湯島天神や千住慈眼寺へ出開帳(寺院の本尊を他所に出して行う開帳)を行い、人々の信仰を集めていた。この大鰐口はこうした人々の浄財によって造られた。今回見つかった「境内図」も、湯島天神など都内で出開帳していたために見つかったとみられる。
 「境内図」を見ると、当時の本堂は茅葺屋根。なんらかの原因で本堂は全焼したため、本堂内にあった「境内図」も焼失し、越谷で見ることはなかった。

 同市教育委員会生涯学習課は見つかった「境内図」を浄山寺に届けた。同寺の石井知章・住職(77)は「これまで、本堂が全焼したのに、大鰐口だけが無傷で残っていたことが謎だった。この境内図で屋外にあったことが初めて分かり、謎が解けて良かった」と喜んでいる。
 同市教委の木村和明・生涯学習課長は「当時の境内の様子が分かり、市にとって貴重な史料である。デジタルアーカイブを活用すると、今までたどり着けなかった情報であっても、インターネットを通じて検索可能な状態でいつでもどこでも情報が入手できる。今回の事例はデジタルアーカイブの利点を実感できる良い事例であったと思う」と話していた。


 浄山寺(じょうざんじ) 越谷市野島にある曹洞宗の寺院。860年(貞観2年)、慈覚大師円仁によって開山された。当初は天台宗の寺院であり、「慈福寺」と称していた。1591年(天正19年)、徳川家康によって宗派を曹洞宗に改めて「浄山寺」に改称するように命じられた。平安時代につくられた国重要文化財の「木造地蔵菩薩立像」があり、年2回、開帳される。